昭和51年?7月25日 特別奉修委員会
入力者 大坪れい
今朝から、岩国の広島、岩国からお参りがあっとります、ある、あの事業を思い立ちたいという訳です。神様にお願いさせて頂いたら、あの、今朝の御理解を頂くんですね。一つの事業でも始めよう、商売でも始めようというからには、やはり一時でもはよ、例えば銀行に金を借りて始めるなら、銀行はよ金が払われてしまうように、まぁそれこそ、人が一年かかるところを、半年でもおかげ頂きたいと、誰でも思っとりますけれども、そういう心がけでは金光様の信心はおかげは受けない。忠実に御用さしてもろうて、それこそ人より一年遅れてから、分限者になる気になれというような心の状態。
そして、( ? )の掴み取りになる、なるなといわれるように、本当にあの~宝くじどん買おうちゆうごたる心がけでは、もう絶対まずおかげ頂かれんですね。金光様の信心でおかげ頂く。ね、皆さんどうですか?宝くじば買おうちゆうごた気はおこらんですか。そんならもう絶対おかげ頂かんです。なら、教祖の御教えに反するからです。ね、そりゃ~一生懸命、( ? )願うように願うから、その願いになっても、それが本当の繁盛にはならんです、そげな根性があっては、ね。ということを頂いたんですよ。ね、だから、心行としてこの、その商売、事業を思い立ちなさるならば、それを一つの心行としてね、それこそ一年人か遅れてからというぐらいな気持ちで、おかげを頂きたい。
そして頂くことが、藤山寛美と頂くのです。ふじはこの、藤の花の藤ですね、(新奇芸?)ですかね、あの~(ひげき?)のまぁ、俳優の名前ですよね、結局本当は富士山といいたい所だろうけれども、あれはだいたい、富士山の富士だったそうですね、富士山の。けれども、ただ意味は、やっぱり富士山だそうです。それをあの、藤にしたんだそうですが、あの、藤の花でもやはり、人から見上げられるような花だと。だから人格を作ることだと、ね、寛美ということは、あ~寛く美しいと書いてあるから、ね、だから結局、あの藤山寛美の18番は、もうアホや(?)が一本やりですから、結局あの馬鹿と阿呆になるということ、そういう心の状態でおかげを頂( ? )。
もうはよう、儲け出さなんといったようなことじゃなくて、またなら今月言われておる、太くなると言うことでも、結局は私は、馬鹿と阿呆になることだと思うですね。いわゆる、あの、その今日岩国から参っておられる、その方のことだけのことではない、これはお互いの信心もです、今朝の御理解を頂いて、改めて思わせて頂くことは、ね、宝くじどん買うごたる根性では、まずはおかげ頂けんと思うて間違いないです。ね、
ある教会の信者さんが、時分では100万円の宝くじじゃったが、そればあの買うけんいっちょお願いして下さいち、そん変わり半分な、当たったなら神様に上げますちゆう訳。「そりゃあんた、自分方の教会でお願いしなさればよかと」私が言うたら、内の先生が言いなさったち、「あんたがそげなこつ言うたっちゃ絶対当たらんばの」ち、(笑)「みんな上ぐる気になんならば、私がお取次さしてもらったちゃよか」ち言わしゃったげな。「の~や大坪さん、みんな上ぐんならお願いせん方がよかじゃんの」ちいわしゃった(笑い)、ね。ところがね、笑い話のごたるけれども、そういう心があるのですよ、ね、神様がそげな金どん目当てにしなさるごたる神様じゃ絶対ないのですから、いかにも神様とか( ? )よかってもです、そういう心がけでは、まずおかげ頂けんと思うていいね、金光教的おかげは絶対受けられん。
いわゆる、馬鹿と阿呆の基礎を作って、藤山寛美の行き方を身につけて、ね、そしてあの、一つの基礎基盤がでけて、それこそ、あれよあれよというごたるおかげ頂くこと、これは別です。ね、私は今日の今朝からの御理解を頂いて、これは改めてもう一遍、合楽の皆さんですね、本当に宝くじどん買うごたる根性じゃ、もう絶対おかげ頂かんばいちゆうこと、もう一遍言うておかないかんと思いよります、ね、もうその根性は、もう教祖の御教え、心に反するから、おかげにならん、本当のおかげにはならんです、ね、
もう一つ、あ~藤山寛美、いわゆる阿呆(?)、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと言われるが、馬鹿と阿呆で行けば道が開けることが分かりますね、もう太くなることだから、大きなおかげが頂けるはずです、ね。福岡の初代が、やはりあれだけの御比礼を、おかげを受けられたのは、やっぱりその馬鹿と阿呆、ね、ですからそういうところから、おかげが現れてくるならば、それは本当なもの、ね。
ただお願いをしておかげを頂くというようなことでは、ね、あっても、本当のおかげにならん、んなら、日勝り月勝りというようなおかげになるためにも、私共の心の中が信心させて頂くならば、ね、事業を始めて、そりゃまぁ一年で当てたい、2年で当てたいと、例えばいうような気持ちで皆が始めますけれどもね、そういう根性では、金光教的な本当のおかげは受けられないということです。